料理の道を志したきっかけ
テーブル・トーク 長谷川 幸太郎氏インタビュー
マイユを愛用しているシェフを訪ねてのスペシャルインタビュー。 3人目にご登場いただくのは、若きフレンチの星、「サンス エサヴール」の長谷川幸太郎さんです。16歳で料理の道に入り、単身渡仏。持ち前の明るいキャラクターとバイタリティで、丸ビルの人気レストランを仕切る花形・シェフとして活躍されています。そんな長谷川さんの人生、そして料理に対する思いを、たっぷりお話いただきました。ご期待ください!
長谷川シェフは現在35歳。若くして有名店の料理長に就任されたわけですが、そもそも料理の道を志したきっかけは何だったのですか?
4 歳の頃から母が病気で入院していたので、僕は小さい頃から父、兄の3人暮らしでした。洋品店を営む父が仕事も子育てもしていたので、学校から帰っても食べ物が何もないなんてことしょっちゅうだった。兄と僕が家事を手伝って、みんなで生活していたから、自然と料理を作るようになっていたんです。中学3年のときに母が他界したのですが、そのとき、「勉強は好きじゃないから…」と進路に迷った僕に、父が「勉強しなくていいから友達を作りに学校に行きなさい!」といってくれ、入ったのが料理の専門学校でした。
1年間の勉強を終えて、まず入ったのが「シェラトン・グランデ・トーキョー・ベイ」のパティスリーだったそうですね。
父の知り合いがこのホテルの総料理長だったんですよ。いきなりレストランに入らなかったのは、「パティスリーができないことが後々ネックになった」という総料理長の勧めでした。まだ16歳。まわりから見たら小僧ですからね。いろんな人が声をかけてくれ、可愛がってもらったと思いますよ。特に、最初に出会ったパティスリーの先輩にはプロとしての姿勢を学びました。とにかく、自分にも他人にも厳しい人で、遅刻は絶対に許さない! 失敗すると、みんなが帰ったあともひとりでやり直しする…。そんな妥協を許さない先輩でしたから、よく怒られました。でも、そんな先輩の仕事ぶりから、プロの料理人のあるべき姿を教えてもらった気がすしますね。
その後、パティスリーを卒業してレストランに。レストランの仕事は、それまでと違っていましたか?
正直、まったく違っていました。パティスリーの仕事は、段取りが得に重要なんです。材料の分量をきっちり量って、決まった段取りで作業を重ねていく…という。ところが、レストランの料理は右脳が勝負! ひらめき、インスピレーションが必要なんです。同じメニューでも、お客の数や気候などによって下ごしらえの順番がまったく変わってくる。センスや感覚を要するし、経験がモノをいうんです。4年間パティシエをやってきて、「自分はできる!」と思っていた僕は、ポキーン!とプライドを折られた感じでしたよ(笑)。
でも、決してへこたれなかったのはなぜだったのでしょうか?
負けず嫌いだということがひとつ。そして何より、「早くフランスに行きたい」と思っていましたから、やめたいとは思いませんでしたね。それどころか、人の倍努力しなければ早く上には行けないと思い、ふだんはシェラトンのレストランで仕事をして、休みの日を利用して他のレストランを紹介してもらい、厨房に入って修業しました。お世話になったのは、「銀座レカン」と、恵比寿の「カーエム」各1年間。街場のレストランは、ホテルのレストランとまったく違っていて、非常に勉強、刺激になりましたね。
街場のレストランで、いちばん印象的だったのはどんなことですか?
大きな違いは、食材の使い方ですね。ホテルには、いつも食材がドーンと大量に入ってきますが、街場のレストランはそうじゃない。ホテルでは捨てるような部分もおいしく使えるように、肉の切り出しなどとても丁寧に行うんですよ。その点がまず、新鮮でした。「レカン」では、食器も非常に高級なものを使っていたから、皿の洗い方も非常に慎重でね。ホテル育ちの僕は、皿も洗ったことが無く、スポンジの粗い面で洗っちゃって、「何やってるんだ!」って怒らたりして。「レカン」の厨房では、聞いたこともないようなフランス語が飛び交っていて、そりゃあもう、興奮モノでしたよ。「かっこいい~」って! そんな修業をしながら、本業のホテルのほうではオードブル、魚、肉、ソースとすべての仕事をやらせてもらった。そして26歳のとき、シェフから「フランスに行ってこい」というOKが出たわけです。



